近世以前の智泉寺の歴史は、伝説として次のように語られています。智泉寺は元々、魚沼郡水沢邑(現在の水沢地区)の城内にありました。城主没落後に、十日町邑中澤辺り(現在の高田町)に移り山号を中澤山と号し、五代の住職を経たものの、火災により諸堂を消失。住職不在のままその後数年の歳月が流れました。
智泉寺の開創は、関ヶ原の戦いから大坂冬の陣の間にあたる1607年(慶長12年)と記録があります。住職不在のまま数年が過ぎたころ、十日町近隣寺院の法要に上州(群馬県)から高名な僧侶が講師として招かれました。その徳望は遠方まで及び、それを耳にした智泉寺の檀信徒が寺の復興を強く願い出たところ、その誠意を悦び快く引き受けてくださることとなり、その僧侶の下で智泉寺再建立の運びとなりました。その僧侶が、智泉寺二世・雲高玄瑞大和尚(うんこうげんずいだいおしょう)です。
雲高玄瑞大和尚
実質的に智泉寺を再建開創されたのは雲高玄瑞大和尚であり、本来であれば智泉寺のご開山となるはずですが、当時は寺院を創始した僧自身が師匠への尊崇の念から、自らではなく、師匠を開山とすることが稀にありました(勧請開山)。雲高玄瑞大和尚もその風習にのっとり、自らの師である价州傳良大和尚(かいしゅうでんりょうだいおしょう)へご開山の名誉を贈り、雲高玄瑞大和尚は智泉寺の二世となったのです。以上の経緯をもって、智泉寺は1607年9月16日、現在の昭和町に開創され、价州傳良大和尚をご開山と仰ぎ400年以上の歴史を刻んでいます。
价州傳良大和尚
現住職で26代目となった智泉寺は、山号を瀧澤山と称し、境内面積約4500坪、檀家数約1500戸、圓通寺・慈眼寺・水月寺の末寺3ヶ寺、末庵2ヶ寺を持つ曹洞宗の中心寺院として今日に至ります。2004年の中越地震では本堂をはじめ、墓地、開山堂、山門など未曾有の大被害を受けましたが、檀信徒や会員の方にお手伝いをいただき、無事に復興しております。